11 19, 2013

スパチュラ誕生物語

Room #2

HOW THE SPATULA WAS BORN – A HISTORY

ロッカー全盛期の今、スキーテクノロジーのパラダイムシフトの始まりをイノベーターの言葉で振り返る。

By シェーン・マッコンキー

写真:Ulrich Grill / Red Bull Content Pool

[編集者注:本記事は、2002年12月に発行されたヴォラント・スパチュラのユーザーガイド「Brain Floss - A guide to the Volant Spatula」に掲載された”HOW THE SPATULA WAS BORN – A HISTORY”の翻訳です]

1996年。当時のスキー業界は2つの革命的な発見の序章の段階にあった。カービングスキーの発明と新雪用ファットスキーの普及である。周知のとおり、今日ファットスキーはパウダーでの滑りを、カービングスキーはハードバーンでの滑りを完全に変えてしまった。圧雪やレースバーンでカービングを可能にする深いサイドカットを持つスキーの開発をメーカーが実験的に始めると、多くのスキーヤーはその新しいシェイプに大きな可能性をみた。

同時期、パウダーでのファットスキーの効果に気づき始めたスキーヤーも出てきた。かくいう自分も、従来型のスキーから(当時としては)特別に太いヴォラント・チャブに履き替えたばかりだった。いろんな雪質で試してみたが、その滑走性能には驚いた。その後、最新のカービングスキーを新雪で試す機会があった。ファットスキーによる体験が強烈だったこともあり、カービングスキーのサイドカットは新雪では有効でないと直感的に理解できた。当時ファットスキーはまだ珍しく、多くの人は従来型のスキーでパウダーを滑っていて、サイドカットのデメリットに気がつく者はいなかった。チャブに乗っていなかったら、この発見はなかっただろう。

1996年夏。アルゼンチン・ラスレーニャスのバーで仲間と飲んでいるときだった。何かのきっかけでリバースサイドカットのファットスキーのアイディアが浮かんだ。そのラフスケッチをテーブルのナプキンに描いて話は盛り上がったが、笑い飛ばす者もいた。それからの2年間、このナプキンは自宅にあるファイルキャビネットの「クール・アンド・ ファニー」のラベルがついた箱の中で眠ったままだった。どこかのスキーメーカーがそのアイディアに乗ってくれるかもという甘い期待を一度も抱くことなく。その間、多くのメーカーがカービング要素をもつサイドカットのファットスキーを作り始めていた。一方ヴォラントの開発チームは、最小限のサイドカットのファットスキーで最大限の浮力と操作性を引き出だそうと格闘していた。

1998年。ヴォラントのデザイン担当のエンジニア数人がスコーバレーを訪れた。目的は、新しいシェイプのファットスキーのテスト。その前から自分のスキー仲間やスキー知識に精通した者のグループで開発を進めていた。何本もの新しいスキーが持ち込まれたが、どれも基本的にはチャブに少しサイドカットを付け足したような形である。旧型のチャブを含め、全員で代わる代わる真新しいスキーに乗ってみた。確かに以前よりもオールラウンド指向になっている。圧雪でもカービングが比較的簡単になり、パウダーでも寸胴型のスキーよりもよく滑った。

試乗の最中、テスター仲間のスコット・ガフニーが遠慮がちに口を開いた。その言葉は、今でもパウダースキーのテクノロジーでおそらく最重要であり、今から思えば当然とも思えるようなコンセプトの元になるものだった。「キャンバーのある新品のスキーよりも、へたった古いチャブの方がパウダーではよく浮く」。ガフニーは周りをうかがいながら言った。それを聞いて、ひらめいた。例のナプキンのスケッチを記憶の中から引っ張りだし、そのコンセプトをじっくり考えた。硬い雪と柔らかい雪の相違点、パウダースノーと水の類似点を探した。こうして、パウダーを滑るときにスキーが受ける影響は水上滑走と似ているという考えにいたった。水上スキーはリバースサイドカットである。サーフボードも同じ。どちらもリバースキャンバーあるいはロッカーの形状を持っている。

それからの2年間、リバースキャンバーとリバースサイドカットのパウダースキーの利点を誰かれ構わず話した。このアイディアを口にしたとたん、ほとんどの人は笑うか丁重に微笑んだ。理解してくれたのは、スコットやJTホームズたち数人だけ。ヴォラントの人間でも真面目に取り合ってくれるとは思えず、説得を試みたことはなかった。パウダーでしか役に立たないスキーを買う人などいないからだ。過去にスキー業界はそれで失敗した経験がある。売れるスキーとは、多目的用途のオールマウンテンスキーである。余計にお金を払ってもうワンペア買おうなんて誰も望まない。スキーショップが店頭に置いてくれないスキーをなぜ作る必要がある?結局、2年の月日が無為に過ぎ去った。それでも長いこと思い悩んだ後、ヴォラントでデザインを担当するエンジニアに話を切り出した。空いた時間でいいから、工場の一画で試しに1、2本作ってくれないかと。協力者のライアン・キャロルとピーター・ターナーは就業時間後も懸命に働いてくれた。2人の努力が功を奏し、2001年夏、最初の4ペアが完成した。

8月。プロトタイプが玄関先に届いた。新品のステンレススチールのトップシートはゆらめいて輝き、スパチュラはまばゆいばかりだった。すぐに荷造りして、撮影の仕事でニュージーランドに飛んだ。ヘリスキーでテストラン。これぞプロスキーヤーの特権。一本目から衝撃が走った!異次元のスキー操作!トップを浮かせる後傾姿勢、さようなら。スライドターンのための過度の動作、さようなら。減速につながる大きな内倒姿勢のGSターン、さようなら。足元の不安定感、さようなら。夢を見ているようだった。すぐにヴォラント本社に国際電話をかけ、プロトタイプの素晴らしさを夢中で話した。気がついたら45分も経っていた。

帰国すると、経営の傾いたヴォラントがよその会社に身売りされるという残念なニュースが入った。従業員はみな忙しくなった。当然スパチュラの開発に費やす時間などない。何の見通しもなく、たった4ペアのスパチュラがこの世に残された。自分が3ペア、ライアンが残り1ペアの片方。もう片方は、スパチュラのコンセプトを売り込むために新生ヴォラントの人間のところへ送られた。スパチュラ開発が再開される日を願って。

運良くヴォラントの再建が軌道に乗り、オーストリアのアトミックの工場でヴォラントスキーの生産が決まった。パーフェクト!アトミックのスキーは高品質。厳しい品質基準を持っている。80年代にスーパーファットなパウダースキーを世界で初めて開発したメーカーでもある。「ファットボーイ」 の愛称をもつパウダープラスは、今日でも史上最高のパウダースキーのひとつと多くの欧米のスキーヤーに称されている。

その後、ピーター・ターナーと二人でスパチュラ生産の予算をかき集めて、アトミックの工場で300ペア作られることになった。

スキー業界には地殻変動が起きている。パウダー用途のスキーは、今はまだヒット商品にはならない。スパチュラの収支は運が良くても、とんとんだろう。でもスパチュラはただのパウダースキーではない。革命的なパウダースキーだ。スキーのなかで最も楽しい部類に入るパウダー滑走の常識を変える力を持っている。リスクは大きい。でもアイディアはスゴいだろ?スパチュラの開発に関わったみんながそう思ったから、プロジェクトは身を結んだ。

2002年10月。これを書いている間にも、ヴォラントは史上最高のパウダースキーを一台一台作っている。雪が降り積る日が待ち遠しい。人生がガラリと変わるような瞬間が300人にも起きるのだから!ピカピカのスパチュラを楽しでくれ!スパチュラの形を笑われても笑わせておけ。パウダーデイでは友達でも敵だ!ちんたら滑ってる仲間を横目にぶっちぎってやれ!健闘を祈る!

Photo: Alfredo Martinez/Red Bull Content Pool

シェーン・マッコンキー
2009年3月26日、イタリアでのスキーベースジャンプ中の事故でこの世を去るまで、多くの人に影響を与え続け、それまでのスキーの世界を全く新しく作りかえた。その39年の足跡は今秋公開の『McConkey』で辿ることができる。

本記事はシェーン・マッコンキー基金理事シェリー・マッコンキーさんのご協力によって掲載が実現しました。ウェブサイトでは、シェーンのイラストが入ったTシャツやキャップなどの販売、寄付の受付けも行っています。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
WHITE ROOMのテキストは クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンスの下に提供されています。

『McConkey』予告編



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Author: Naoyuki Inaba
URL: http://whiteroomski.com/articles/history-of-spatula
Tags: #History #Gear #Legend #02

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